金沢でも大揺れで恐ろしかった記憶から15年。
地震の3-4日後にお手伝いに借り出されて行ってきました。大阪の駅からみんなで阪急電車に乗って車窓から外を眺めていると、大阪市中では何の変化も無かったのが、だんだん屋根を青いビニールで被っている民家が見えまじめ、そのうちビニールだけでなく塀や石垣が倒れている風景が目に付き、1階が潰れて高さが低くなっている民家が目立ち、神戸周辺では高い建物が見当たらなくなったことを覚えています。車内では、最初は遠足気分だったのが、風景が激減していくにしたがって無口になっていきました。恐怖。心に宿ったのは恐怖心だけでした。
神戸駅に到着してからの記憶が余りありません。きっと、壊れた建物に心を奪われ、無意識のうちに風景の記憶が閉じ込められているのかもしれません。物資の荷降ろしを行い、小学校に連れて行かれ、簡易トイレの掃除を行いました。トイレの掃除といっても、寒さから山となって盛り上がった大便を、便器の側から崩すという作業。これは臭いといい、その硬さといい、最悪でした。
夕飯は支給されたお握りを食べて小学校の校舎で眠りました。眠りましたというものの、あまりの寒さでウトウトした程度です。暖が何も無い状態のコンクリートの校舎は、いくら毛布があっても眠れるようなものではありません。
翌日は朝食や昼食の配給を公園で行うべく、トラックに荷物を積み、公園で被災者の方に手渡ししました。
午後には次のチームと入れ替わりで岐路につきました。
金沢で揺れていた記憶より、この救援の記憶が私の阪神大震災の記憶です。あれから15年。すべての人が幸せでありますように。